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INPS JAPAN   IDN-InDepthNews - UN INSIDER

忘れえぬアウシュビッツの恐怖

Igor Malitski in front of the gate to Auschwitz. Credit: Christian Papesch/IPS

【オシフィエンチム(ポーランド)INPS=クリスチャン・パペッシュ】

 

ウクライナ出身の元機械工学教授、イゴール・マリツキー氏(87歳)は、金属製のゲートの下に降り積もった雪の上に立っていた。厚いジャケットを羽織り、頭には青と白の帽子を被り、大きなプラスチックのヘッドフォンをしている。

マリツキーは無表情であった。彼の帽子は、60年以上前の血で汚れている。彼の頭上にある鉄でできた巨大な文字は、アーチの形を成している。そこにある言葉こそが、人間の歴史の中でおそらく最も恐ろしいスローガンであろう。「労働は解放する」(Albeit macht frei)。

ここは、第二次世界大戦中の1940年から45年の間に現在のポーランド南部オシフィエンチム市郊外に設けられた「アウシュビッツ強制収容所」への入り口である。

「私の番号は188005でした。」とマリツキー氏は、彼の左の袖をまくりながら、ほぼ完璧なドイツ語で語った。その袖の下には、消えかけてはいるが、青字で彫られたその番号が浮かび上がっている。マリツキー氏にとって生涯残るこの刺青は、アウシュビッツ収容時代の忌まわしい記憶を常に思い出させる目に見える傷である。

「この収容所に到着してまず腕に刺青をされましたが、その時私は一片の肉片にされた気分になりました。つまり最初から最悪の経験でここでの生活は始まったのです。」とマリツキー氏は語った。

しかしナチス支配下で最大の絶滅収容所であったアウシュビッツ収容所(実際には3つの収容所から構成されていた)に連れてこられた人々のほとんどが、そうした刺青を入れられることはなかった。というのも、虐殺された110万人のうち約8割が、施設に到着後そのままガス室に連れて行かれたり、銃殺されたりしたからである。
 
犠牲者の内訳は大半の90万人を占めるユダヤ人をはじめ、シンティ・ロマ人(ジプシー)、政治犯、エホバの証人、同性愛者、精神障害者、身体障害者、捕虜、聖職者、さらにはこれらを匿った者などであった。1945年1月27日、ソ連赤軍がこの地に侵攻し、7,500人の収容者が解放された。

戦後、アウシュビッツは、人種差別的なナチスドイツの理想にそぐわないと見做された全ての民族・宗教・社会集団を、計画的にまるで工場のように虐殺していったホロコーストの象徴となった。

現在では、世界各地から年間約130万人が訪れており、ポーランド国内の博物館としては最も訪問者が多い施設となっている。

「ここはおそらく防衛的なPR戦略をとっている唯一の博物館だと思います。私たちは芸術家、ジャーナリスト、ビジネス関係者から多くのリクエストを受け取っていますが、通常こうした要請を断るのが私たちの仕事となっています。」と広報担当のパヴェル・スタヴィッキ氏は語った。

収容所跡はホロコーストを人類の記憶に留めるうえで重要な役割を果たしている。そして生き証人である生存者の役割も極めて重要である。ドイツのNGOマキシミリアノ・コルベ工房」等の団体は、ナチス時代のゲットーや強制収容所の生存者を支援し、学校、大学、元収容所等で記念イベントや国際会議を開催している。

同工房のヴォルフガング・ゲルシュトナー氏は、「アウシュビッツの生存者と学生とが直接触れ合うことが大事です。本に向かって個人的な質問をすることはできませんから。実際に収容経験をした生存者と直接会って話すことはかけがえのない機会なのです。」と語った。

今回の取材で記者はそのような機会を得た。マリツキ氏をはじめ再びアウシュビッツを訪問した生存者の人々を取材した下記の映像資料をご覧ください。

翻訳=INPS Japan浅霧勝浩

 

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