|ミャンマー|尊厳を復活させる-逆境に毅然と立ち向う国内避難民

【シットウェ(ミャンマー)IPS=ロブ・ジャービス、キム・ジョリッフ】
ミャンマー西部ラカイン州では、3年近く前に勃発した民族紛争で集落を追われた14万人を超える人々が、乾ききった平地や海岸沿いの湿地帯に設けられた収容所に抑留されたままになっており、必死に生き延びようとしている。
想像を絶する困難に直面して、多くの避難民が、知恵を絞り必死に働くなかで、状況に適応し自らの尊厳を守る術を見いだしてきた。
主流メディアが報じるセンセーショナルな、そして時折血なまぐさい報道の背後には、ラカイン州の首都シットウェから離れた各地に設けられた収容所で、食料を得るために必死で働く者や、燃料になる木片を探す者、商売を再び始める者、避難民コミュニティーを基盤とした社会奉仕に従事する者など、日々を生き抜くために逞しく逆境と闘っている多くの市井の人々のストーリーがある。
2012年、この地域で多数派のラカイン族(仏教徒)と少数派でその大半が自らをロヒンギャと呼ぶイスラム教徒の間で衝突が起こった。ロヒンギャ問題は依然としてミャンマーでは論争の争点であり、数十年に及ぶ民族紛争問題の核心部分を成している。
それから3年が経過し、14万人を超える国内避難民(その大部分がロヒンギャが占めている)が事実上各地の収容所に抑留・隔離されたままとなっており、ミャンマー政府は現在も、彼らが以前暮らしていた集落への帰還を認めていない。
国内避難民に対する援助活動は、国連機関や主流の援助団体が実施しているが、必然的にミャンマー政府を通じたものとなるため、避難民の自立には殆ど役立たないトップダウン式の介入になるほか、最悪の場合には避難民の自立を阻害する場合もある。
しかしこうした困難にもかかわらず、避難民らは、人間の精神の強靭さと、最も先の見通しが暗く絶望的な状況下でしばしば発揮される目覚ましい回復力を発揮している。彼らは決意と勇気、そして思いやりを持った小さな行動を通じて、自らの生存領域を確保しつつ、徐々に尊厳を復活しつつある。
アラファさんは6人のこどもと3人の孫とともにこのテントで暮らしている。燃えさかる自宅から着の身着のまま逃れたアラファさんは、少しでも栄養を確保しようとテントの屋根を利用してゴーヤの栽培を始めた。写真に写っている孫たちは全員、地元のムラー(イスラム教指導者)の祝福を受けた数珠を身に付けている。資料:Rob Jarvis
20代前半のチュ・マ・ウィンさん(ラカイン族の仏教徒)は、2012年7月にロヒンギャによって住んでいる家を焼かれ、国内避難民となった。収容所ではボランティアで子どもたちを教えている。彼女の収容所ではウィンさんがこの仕事をつづけられるよう、皆が少ずつ米や少量のお金を供出して支援している。資料:Rob Jarvis
ザディ・ベグンさんは5人の子どもを抱える25歳のシングルマザーで、自宅前で小さなヌードル店を切り盛りしている。2012年7月に村が襲撃された際、ベグンさんは母と子どもたちとともに村から逃れたが、荷物をとっていくるといって家に引き返した夫のイブラヒムさん(当時30歳)は、襲撃してきた仏教徒らによってマチェーテ(山刀)で惨殺された。Credit: Courtesy Rob Jarvis
3年までの2012年7月、ヌール・アハメッドさんは故郷のマヨ・トゥー・ジィ村で、自分が所有する船を仏教徒たちに盗まれた。国内避難民となった現在は、13歳になる息子とともに日払い賃金を稼ぐために、連日他人の船を建造している。建設をはじめて20日目の船の前に立つアハメッドさん。資料:Rob Jarvis
フマンマド・フサインくん(8歳)は、週末になると、友人たちとともに、燃料として使えそうな木の切れ端を探して泥を掘り起こしている。写真を撮影した時点でフサインくんは、3人の兄弟と2人の友人とともに既に4時間働いていた。手にしているのはこの日初めての収穫となった木片。フサインくんは、母に木片を持ち帰れることをとても喜んでいた。資料:Rob Jarvis
ラ・ラ・メイさんは自宅の入口に設置したミシンで、日の入までの残り僅か数分間降り注ぐ日光を利用してブラウスを縫っていた。メイさんが服を仕立てて得ている一日当たりの収入は50セントから1ドルである。また彼女は、このミシンを使って、自宅で近所の4人の少女たちに無料で洋裁を教えいる。このミシンはその少女たちが、収容所付近の村の住民から購入したものだ。資料:Rob Jarvis
ファリダさん(18歳)は、ビンロウの実を加工する家業の手伝いをしている。加工する実は地元ラカイン族の事業主が所有しており、ファリダさん一家は加工賃として1つの実あたり9セント以下を受け取っている。資料:Rob Jarvis
アブール・カシムさん(53歳)は、7人のこどもを持つ父親だが、食欲がなく、過去8カ月の間、腸に深刻な問題と内出血の症状に苦しんでおり、サイ・ター・マー・ジー収容所内の診療所で日中の大半を過ごしている。医者はカシムさんをシットウェの総合病院に照会したが、カシムさんは、「総合病院に行くつもりはないし、行く余裕もありません。」と語った。伝統療法に頼るしかないカシムさんだが、毎日体が激しく震える発作に苦しんでいる。
ダ・ナイン診療所は、国内避難民たちが直面している行政当局の怠慢を物語るよい例である。診療所は2012年に国際NGOによって建設されたが、援助資金の不正管理と政府の無関心により、以来今日に至るまで大半の期間にわたって稼働していない状態が続いている。ミャンマー政府は医者と薬を提供すると約束したが、その後中止になったままである。資料:Rob Jarvis
ヌール・ジャハンさんは、3人の子どもと義理の母、そして失業中の夫を支えるため、日中は唐辛子の天日に干し、粉にすりつぶす作業に従事している。夫は、都市部への移動が禁止される前は、肉体労働者として働いていた。ジャハンさんは、地元の市場で生の唐辛子を仕入れ、加工した唐辛子粉をスプーン1~2杯の分量毎に袋詰めして販売しているが、収入は3~4日働いて約2ドル程度である。資料:Rob Jarvis
ミ・ニ・ラさん(16歳)は、2012年の民族間抗争で焼き払われたナシ村の出身。腕の中に抱いている赤ちゃんは生後まだ16日目。シットウェ郊外のブー・メイ収容所の小屋で生まれた。資料:Rob Jarvis
この少年は、ビンロウの実を少量のライムの粉、タバコとともにキンマの葉で包む伝統的な加工をほどこしたものを売って歩いている。写真では、海から回収した2つに割れた浮きを入れ物に活用している。資料:Rob Jarvis
このラカイン族の年配の女性はビルマの独立を経験し、その後は歴代の軍事政権下で抑圧される少数民族の一員として生き延びてきた。2012年に村をロヒンギャによって焼かれてからは、シットウェ郊外の避難民収容所で暮らしている。彼女はここで必死で資金をため、この小さな店を開いた。資料:Rob Jarvis
困難に直面して、家を追われたイスラム教徒の多くが、ムラーの教えに従って、神に救いを求めた。このような住民の手による、手を洗う井戸を備えた竹製のモスクが、全ての難民収容所で建設されている。資料:Rob Jarvis
アング・ミアさんはラカイン族の女性雇用主のために、鶏を料理している。その女性ビジネスオーナーは、ミアさんに一羽あたり40セントを支払い、調理済鶏肉を地元の内田で販売している。資料:Rob Jarvis
この男性は自身の声の屋根にソーラーパネルを設置し、携帯電話を持っている少数の国内避難民に携帯の充電サービスを提供している。収容所の避難民の小屋には電気が通っていない。資料:Rob Jarvis
これらのフグは乾燥し裏返しにされたあと、中国に向かう商人に販売されている。この男性は2012年に自宅が焼き討ちされた際、数百ドル相当の干物の在庫を失った。収容所に移った今は、地元の漁師から干物を販売後に全額代金を支払う約束で、生のフグを仕入れている。資料:Rob Jarvis
これらの女性は浜辺で太陽が照りつける中、前日に水揚げされた魚を天日干しするために何時間もしゃがんだままの姿勢で作業している。この地域では干し魚が少量のご飯とともに何日もかけ食べる習慣があることから、生魚より好まれている。ラカイン州の他の地域で漁業を営んでいたロヒンギャコミュニティーは、紛争がはじまると村を捨て、長年に亘ってロヒンギャが漁業コミュニティーを形成していたこの地に移動してきた。資料:Rob Jarvis(原文へ)
翻訳=IPS Japan
関連記事: