子どもの現状に専門家が懸念
【ジュネーブIDN=ジャヤ・ラマチャンドラン】
生態系の劣化や気候変動、それに、過度に加工されたファーストフードや甘い飲み物、アルコール、タバコの消費を促す搾取的なマーケティング慣行によって、世界の子どもや若者の健康と未来が差し迫った脅威に晒されていると指摘する、画期的な報告書が発表された。
世界の子どもと若者の保健専門家40人以上からなる委員会が作成したこの報告書は、「子どもたちが気候危機の崖っぷちに立たされており」、「子どもの健康や環境、未来を適切に守っている国はない」と指摘している。
|国際人口開発会議|女性・女児の人権を守る道筋を示す
【ナイロビIDN=ジャスタス・ワンザラ】
ケニアの首都ナイロビで11月12日~14日の日程で開催されたナイロビ・サミット(ICPD+25)は、1994年の初の国際人口開発会議(ICPD:カイロ会議)が開催されてから25周年の節目となるもので、女性・女児の人権擁護に向けた大胆な公約が採択されて、幕を閉じた。
世界各地から首脳や学者、人権活動家、宗教者ら6000人以上が集ったこの会議では、パートナーらが、2030年までに、妊婦の死亡をなくし、家族計画に関するニーズを満たし、ジェンダーを基礎とした暴力や女性・女児に対する有害な行為をなくすことを誓った。
アフリカ各国政府、活動家と協力してセクストーションと闘う
【ダルエスサラームIDN=キジト・マコエ】
「エイズではなくA評価を取って卒業しよう」というポスターがダルエスサラーム大学に貼られている。高い成績を得るために自らの性を提供する女子学生たちの暗い現状を物語るものだ。
「先生からデートに誘われました。でも性的関係を持つことを拒むと、報復として成績を下げられました。」と法科学生のヘレナさん(仮名:23歳)は語った。
ジェノサイドからアフリカのファッションステージへ―ルワンダ女性がいかにして生活とファッション産業を成り立たせているか
【キガリINPS=エイミー・ファロン】
1994年のルワンダ虐殺が起こるまで、サラーム・ウワマリヤさん(58歳)の大学教授の夫は、妻と8人の子どもを養う一家の稼ぎ頭だった。当時ウワマリヤさんは、収入を補うため、近くの市場で野菜を売っていた。
ところが多くのルワンダ人と同じく、1994年の4月から約100日間に亘っておよそ100万人のツチ族と穏健派フツ族が殺害されたルワンダ虐殺によって、ウワマリヤさんの人生も大きく変えられた。彼女はこの虐殺の中で、夫と2人の子ども、両親、叔父・叔母を殺されたのだ。
|UNウィメン|女性に対する暴力という予防可能な悲劇を終わらせる
【ニューヨークIDN-INPS】
今年の「女性に対する暴力撤廃の国際デー(11月25日)」を迎えるにあたり、国連事務総長による「団結しよう。女性への暴力を終わらせるために」キャンペーンは、暴力からのサバイバー、サバイバー・アドボケートおよび女性や女児に対する暴力の予防・撤廃のために活動している人々と団結して立ち上がるよう私たちに呼びかけています。私たちの責務は、こうした人々と連帯するだけではなく、女性と女児の命と健康に有害な影響を及ぼし、また予防が可能なこの世界的な悲劇を終わらせるための解決策や手法を見つける努力を加速させることでもあります。
ジェンダー平等、女性のエンパワーメントに取り組むアフリカ
【ヨハネスブルクIDN=ジェフリー・モヨ】
29歳のルラマイ・グワタさんにとっては、毎年3月8日の国際女性デーを祝うべき理由がなかった。彼女は、家庭内の争いごとを巡って夫から激しい暴力を受け、病院で傷を癒していたからだ。
2カ月後、世界が「母の日」を祝う中で彼女の傷は治癒したが、自分が夫から虐待を受けている姿を2人の子どもたちに見せてしまった苦しい記憶から逃れられずにいる。
相馬雪香さんに学ぶ「心の力」(石田尊昭尾崎行雄記念財団事務局長)
【IDN東京=石田尊昭】
憲政の父・尾崎行雄が74歳の時の言葉――「人生の本舞台は常に将来に在り」。
何歳になっても「昨日までは予備門で、今日以後が本領を発揮する時である」という、とても前向きで力強い言葉です。
尾崎行雄は95歳で亡くなりましたが、その前年に「初落選」するまで、実に60年以上にわたり衆議院議員を務め、文字通り「生涯現役」を貫きました。
|アイスランド|SDGsの宣伝を若者がリード
【レイキャビクIDN=ロワナ・ヴィール】
アイスランドでは、首相官邸の支援の下に13~18才の12人の青少年で構成する「若者評議会(Youth Council)」が設置され、持続可能な開発目標(SDGs)の促進を主導することになった。
コーディネーターのニルシナ・ラルセン・アイナルスドッティル氏は、12人の枠に140人超の応募があったことを明かしたうえで、「応募者全てが素晴らしい発想の持ち主で、選考は難航を極めました。」と語った。
「できることから始める」相馬雪香さんの信念と生き方(石田尊昭尾崎行雄記念財団事務局長)
【IDN東京=石田尊昭】
尾崎行雄の三女・相馬雪香さんと出会ったのは、1996年。
日本のNGOの先駆けとなった「難民を助ける会」の創設者であり会長、そして尾崎行雄記念財団では副会長(会長は時の衆議院議長)として指揮を執り、メンバーの精神的支柱でもあった相馬さんは、私にとって「雲の上の人」でした。
|ネパール・インド|「性産業」犠牲者の声なき声:売春宿から1人でも多くの犠牲者を救いたい
【INPS HIV/AIDS研究事業現地取材より】
私は当時22歳で、長距離トラックの運転手をしている夫と生後数カ月の娘の3人家族で、慎ましいながらも幸せな生活を送っていました。当時の夫の仕事は、荷物を遠くカトマンズやインドのダージリンにまで運送するものだったので、一度の仕事で、数日は家に帰ってこられませんでした。私は、娘の面倒を見ながら、道端に屋台を設けてお茶を商っていました。
そんな私達の日常が突然狂わされたのは、夫が仕事で留守中のある日のことでした。幼い娘が突然肺炎に罹り、村のクリニックに連れていったところ、抗生物質がないので、何とかカトマンズの病院まで行くしかないと言われたのです。私の村からカトマンズまではバスで7時間の距離でした。途方にくれていると、夫の運転手仲間と知人が「カトマンズよりもインドのパンタにいい病院がある。望むなら子供をすぐに乗せていってあげよう」と申し出てくれました。